武田信玄と朝鮮半島 1 ※武田信玄は朝鮮人2psd








武田信玄と朝鮮半島 1 ※武田信玄は『渡来人』
の続きです
250武田信玄と朝鮮半島 1 ※武田信玄は渡来人







武田信玄と金山
武田信玄は山に囲まれ平地が少ないながらも、国の経済力が強く、大きく影響をもらったのが
『金山』を多く持っていたからだと言われています。
『武田信玄の隠し金山』とも言われています。
信玄は隠し金山が、いくつもあったと伝えられていまが、それらの中で、塩山市北方の「黒川金山」と身延町の「湯之奥金山」が有名です。

現在日本に『金山神社』といわれる神社が23箇所ありますが信濃・甲斐(現在の長野・山梨県)だけでも12箇所もあり、半分以上が信玄の国に祀られ、金に対する信仰と、どれだけ金山が多く当時の産出量が多かったかをうかがえます。 

さてこの金を掘り起こし、金に加工する技術はどのようにして伝わり、磨かれていったのでしょう。
もともと甲斐の金山師は、古代の奥州藤原氏からの渡来系工人の家系が多く、ゆえに鉱山師というと
渡来系氏名を持ったものが多いことが分かっています。
これは朝鮮半島の百済国よりもその隣にあった伽耶国の影響が大きいとされています。
伽耶(かや)と聞くと、『楽器のカヤグム』を思い出すのですが、実は伽耶国は、朝鮮半島で滅亡を
迎えるまでのあいだ、製鉄技術や金の製造に長けていたといわれています。
この技術は、福井県の敦賀港から入り滋賀県や、京都、奈良、そして長野県や山梨県へと
伝わったとされています。

ここで、1人の人物を取り上げようと思います。
『大久保長安:おおくぼちょうあん』という人物です。
彼は武田信玄の部下で金山や鉱山開発、税務などで活躍し、その後、徳川家康の時代には
金山・銀山奉行も勤め、当時日本で第一級の鉱山技術者でした。
大久保長安といえば、武田家から徳川家に至る歴史書には、必ず顔を出すという、超有名人です。
彼は1545年に甲斐で生まれます。そのあと信玄の目にとまり武士として、とりたてられます。

さて彼の出身が面白いのですが、父は奈良県の『金春座:こんぱるざ』という土地の出身で
『秦氏』の渡来人が多く住んだ地域でした。そして仕事は猿楽師でした。
猿楽師とは『能』をする人のことで、能の始まりを調べると、日本で一番勢力を誇った渡来人・秦氏
にたどり着きます。
そしてこの大久保長安のお父さん、金採掘の技術を持っていたそうなのです。
もうお分かりのように大久保長安さんの先祖は渡来人の可能性が非常に高いのです。
大久保氏の家紋は上り藤に大文字で下り藤が家紋の藤原家傘下の一族です
明治維新の大久保利通の家紋も上り藤ですから彼もまた朝鮮人の流れを汲む藤原一門です
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武田信玄と長篠の合戦

愛知県の新城市長篠は1575.6/29に『長篠の合』が行われた場所です。
野球で言うならば『オールスター戦』といって良いくらいの戦国の名将たちが参加している戦いです。長篠の合戦は、織田信長&徳川家康の合同軍と武田勝頼(信玄の息子)が戦った戦争で
鉄砲がフルに使われたとして有名です。勝頼はこの戦いを機に滅亡への道を歩んでいきました。

この戦いを別名『設楽原の戦い:したらがはらのたたかい』とも言います。
設楽原の『設楽』とは朝鮮半島渡来人の製鉄場を現し、『たたら場』という地名が後に
設楽となったようで、この地域に定着した渡来人は名を設楽とし、設楽の人が多く住むとして
地名もそのようになったようです。
朝鮮渡来の「設楽神」や渡来人の新羅人から新羅を『シタラ』と訛ったものとされています。

現在の長篠のある新城市は平成17年10月、旧新城市・旧作手村・旧鳳来町と合併して
新・新城市となりました。旧設楽町は平成17年10月、旧津具村と合併して新・設楽町となりました。

新城市旗頭山(はたがしらやま)というのがあるのですが、標高は100m以下の低山です。
これは朝鮮半島渡来人の珍しい積石塚古墳の群集墳があり
「長篠の戦い」の際、徳川家康が、ここに陣を敷いたと言われています。

昔はこの地域を広い範囲で『穂の国』といい、古代渡来人の影響を受けその後『穂の国』が豊である
事から『豊の国』となり、“豊の国の川”→“豊川”となったそうです。
現在、愛知県の東北から西南に流れる河『豊川』も流れ地名にもなっています。
現在この豊川の西南に豊橋市がありますが、ここもまた渡来人の痕跡が多く残り古墳が沢山あります。
※芸能人バナナマンの『設楽 統:したら おさむ』さんは埼玉出身ですが、彼の先祖をたどると
ここに行き着くのかもしれません。

武田信玄と信玄の部下 : 馬場氏 (藤原氏)
信玄の部下の1人に『馬場信春:(馬場信房)』という人物がいます。
信玄の父からつかえ、信玄はもちろん、その子供の勝頼にまで使えた人物で『武田四天王』といわれる重臣中の重臣です。そして信長&家康連合軍の長篠の戦いで戦死しました。

馬場氏は木曾家村の三男・馬場常陸介家景を祖とする元は『木曾氏』の流れで本姓は藤原氏です。
この祖先は『中臣鎌足(藤原鎌足)』といい、藤原氏の最初の人になります。
藤原鎌足は第38代天智天皇から名をもらった人物です。
謎が多く、日本人説もありますが、実は631年に、百済から人質として二人の王子が日本へ
送られてきたうちの1人です。
この百済の王家の血を引く2人を『豊璋』『善光』の兄弟といい、『豊璋』が藤原鎌足です。
『日本王朝興亡史』、『藤原氏の正体』を参考にするとよく分かります。

豊璋は後にその才能を認められ藤原と名前を貰い天皇家に仕えます。
後に『大化の改新』をおこす人物となります。

そんな朝鮮半島渡来人の血を引く馬場信春の子孫ですが、徳川家康は武田家が滅んだ後に
同族であり父親:信玄の家臣団を手厚く庇護しました。
その後は子孫たちは江戸の幕臣や、大阪、新潟、栃木へとバラバラに移り住んでいきました。
※テレビでよく出てくる歴史学者、小和田哲男が「馬場信治の子孫」であるといっていますが
自らを朝鮮人と公言しているようなもので滑稽です。
小和田哲男は朝鮮人








朝鮮人に乗っ取られてしまった今や反日局のNHKやTBSのコメンテーターや学識者として意見を
述べていますが彼の歴史観は朝鮮人至上史観なので信ぴょう性に欠けると言わざるをえません。
裏の顔は朝鮮総連の工作員で日本を画策することが主たる仕事です。

武田信玄と信玄の部下 : 山県氏 (源氏)
武田信玄の『武田四天王』といわれる重臣中の重臣で真っ赤な戦闘服で戦った有名な軍団がいました。後に徳川家康の部下、井伊家がこの色を引き継いでいます。『山県昌景』という武将です。
彼の先祖は美濃国(岐阜県)山県郡発祥で『源 国直』が美濃山県氏の始まりで山県頼清と名乗りました。
その子孫の山県家信という人物が甲斐武田家に頼り、甲斐国に移住、そして家臣になりました。
山県氏の家紋は清和源氏嫡流の源頼光を祖先にもつ土岐氏:明智光秀と同じ桔梗紋です。
武田24将









山県家の先祖の血筋をたどると源国直→源 頼光→清和源氏→56代清和天皇の子
であったことが分かります。
信玄の部下について3名を上げましたが、この他の『武田24将』も血筋をたどると
朝鮮半島渡来人の血筋
へと行き着きます。

武田信玄と信玄の母
山梨県の3分の2を占めていた巨摩郡:こまぐんという土地がありますが
これは高麗から来た古間という言葉で、後にこの土地を、巨摩郡と変えました。
この土地で大いに権力を発揮したのが渡来人の子孫である大井家でした。
大井家は戦国時代に入り、隣国との争いで弱体化していきます。
そんな中、隣国との和睦や同盟国になるために交わしたのが親族の結婚でした。
ほぼそれは国主の娘が嫁ぐ形が多くありました。

戦国時代、巨摩郡に住む大井家の当主は『大井信』と言いました。
彼は武田信玄の父と対立し窮地に追いやられますが、何とか勝利し、和睦します。
その人質として差し出したのが『大井の方』でした。彼女は信玄の父:信虎と結婚し生まれたのが
武田晴信のちの信玄です。
大井氏は高句麗系の渡来人ですから信玄は渡来人の血を引くことになります。
※甲府市愛宕町208に『長禅寺』というお寺があり、ここに信玄公の母『大井の方』のお墓が
祀られています。

武田信玄と先祖
信玄のルーツをたどると先祖は『源義光』と言います。彼の本名は『新羅三郎義光』といいます。
日本での出身は近江、現在の滋賀県となっていますがれっきとした朝鮮半島渡来人であり
『新羅国:しらぎこく:신라국』の人です。

Wikipediaや、インターネットでは
「滋賀県の新羅善神堂(三井寺の近く)で元服をしてこの名前を授かった、新羅人ではない」
と書かれていますが、これは間違いです。

渡来人文化の書籍などで有名な、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化 7』にも
武田信玄の先祖は渡来人と書かれています。
その他、新羅善神堂や、静岡県浜松市史書などを調べると、分かってきます。
これは明治以降に歴史を湾曲されたものです。
『信玄の母の系統も朝鮮半島渡来人』『武田信玄直系も朝鮮半島渡来人の血筋』
つまり武田信玄は朝鮮半島渡来人の血を、色濃く引き継ぐ人物ということになります。
信玄の旗『風林火山』の孫子の兵法も中国から朝鮮半島渡来人が日本に持ち込んだものです。

源義光(新羅三郎義光)について
今回この結論に至るまで長い時間を費やしましたが、以下の内容でつながると思います。
浜松市に中田島砂丘という日本三大砂丘があります。この近くに新羅大明神という神社があります。
だいぶ規模は小さくなり、中々見つけにくいのですが、これについて『浜松市史』の編集に
たずさわった渥美清一氏が『浜松の新羅大明神と小笠原基長』という本にかなり詳しく書いています。

この本によると、浜松の新羅大明神は1723年の江戸時代に創建されたようです。
そして小笠原基長が自分の祖神である滋賀県の新羅善神堂から勧請し、建てたそうです。
さてこの小笠原基長という人物の先祖は、源義光で別名:新羅三郎義光であることから新羅大明神を
立てることは当たり前のことであったようです。

ここで次の本になるのですが、小笠原基長は生前に『新羅大明神祀記』を書き残し
次の文章を残しています。
「新羅善神堂は元々朝鮮半島渡来人の大友氏の神社であり、創建を新羅三郎義光がたずさわり
その上、新羅大明神の氏人(同族の意味)である。」
と書かれています。
滋賀県の新羅善神堂は新羅系渡来人が建てただけでなく義光自身が氏神を敬ったということなのです。また氏人とあることから新羅人ということも分かります。

つまりWikipediaや、インターネットなどで書かれている
『源義光が新羅善神堂で元服して名前を新羅三郎義光にした』というのは間違いであり
源義光は歴とした渡来人だったのです。
新羅三郎義光と名を改めたのは、先祖の名に戻りし行為だけでなく自ら新羅一族の子孫
であることを名乗った行為
だったのです。
そしてその直径の子孫、武田信玄は母も父も渡来人の血を引く子孫なのです。
(提供:蒼天求白雲)

源頼朝を創設者とした鎌倉幕府が坂東武士である平氏の北条時政・北条義時らに乗っ取られたことで
平氏の時代になるも源氏の新田義貞に滅ぼされ源氏の足利氏が京に室町幕府をつくります
しかし室町幕府もやがて南北朝の動乱に幕府の力を失っていきました

南北朝時代を経て戦国時代になったことで朝鮮武士勢力は次のヒーローを立てることを迫られます
都から遠すぎた関東での蜂起に失敗(鎌倉幕府)したことや直に都に幕府を置いて失敗したことを受け
甲信地方で朝鮮勢力の強かった甲斐の国に白羽の矢が立ちました

坂東(茨城)から派遣されていた清和源氏直流:武田家の長男:晴信を担ぎ壮大な計画が立てられました
無能な晴信の父親を家臣団が源氏仲間の今川に追い出すことがスタートでした
信玄の血を拡散すべく松平家に子を残し桶狭間を演出したのです
信玄の隠れた目的は強い平氏の北条家を都に上洛させない役目もありました
※都への上洛最短経路の同族の美濃には手を出していません

武田信玄を英雄視する学者やドラマ・映画・歴史書はあっても卑下することはありません
日本国内の朝鮮人のヒーローであり続けなければならないからです

56代清和天皇による清和源氏は50代桓武天皇の子孫である桓武平氏に対抗し
関東地方に居住する際に朝鮮系の人を「武士団」として結集しました。
このようにして朝鮮人天皇VS日本人天皇の抗争は藤原氏の時代から今日まで1,400年もの間
絶えることなく続いています。
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